四の章  
北颪 きたおろし (お侍 extra)
 



     雪割草



 透明度が増し、それは澄み渡っていた高い高い秋の空が、いつの間にやら彩度を失っていて。気がつけば、暗くはないがそれでも重たげな雲に、空一面覆われることも多くなり。これはいつ雪が降り出してもおかしくはないぞという前知らせ。村人たちはこぞって冬への支度に取り掛かっての忙しくなり。保存食の準備に住まいの養生や補修、炭の備蓄に薪割りと、慣れた様子で手をつけ始めて。この冬は何といっても、野伏せりたちに収穫した作物を奪われずに済んだことが皆の心を知らず知らずほこほこと暖めており。その上、負傷逗留中の侍たちもまた、何かと手を貸したので。厳冬へと向かうための準備は、殊の外 手厚いそれが、ずんと余裕で進んでいる模様。機敏だし飲み込みもいいお侍様がたは、お頼みした作業を、それが何であれ あっと言う間に要領を得ての、毎年手掛けていたかのような手際で片付けてしまわれることから、あちこちから重宝がられており。しかも、虹雅渓に伝手がおありとあって、お仲間への連絡かたがた、加工品など特別な物資への都合もつけて下さるのが、辺境の小さな村にはたいそう助かる頼もしさ。勿論のこと、
『雪に埋もれますで、冬場はそもそも外への警戒が要らぬ土地ではありますが。』
 空をも埋めんという途轍もない規模で、雷電や紅蜘蛛を率いて押し寄せた、あの“都”の精鋭らを。たったの一桁という頭数にて迎え撃ち、見事叩きのめしたお歴々。人並み外れた腕っ節をしておいでの方々揃いだからして、万が一にも野伏せり崩れの賊だの野盗だのがやって来たって護りは万全と。この冬は例年になく安んじて過ごせそうな神無村だったりし。
『行く先々で、嫁は取らぬか居残っては下さらぬかと。何かの拍子に切り出されることが多いのが、困りものっちゃあ困りものではありますが。』
 元・詰め所の囲炉裏端にて たははと笑った平八も、もはや床上げを済ませてのすっかりと復調を遂げており。出来る範囲でのお手伝いをこなしつつ、雪と向き合う神無での冬を越すことで、病床にいた間に衰えた体力を蓄積し直し、やがては旅立つ春を待つ態勢。村を護って下さいと、依頼された戦さは既に終わった。後腐れもついでに断って、彼らの役目も果たされた以上、のどかな農村に戦さびとなぞ無用の長物。よって、此処に居残るつもりの者はない。

 “まま、菊千代だけは別ですが。”

 水分りの巫女様の妹御、小さなコマチの婿になると もはや公言したも同然の身ゆえ。彼だけは別で、居残り確定に間違いはなかろうなと。七郎次がその口許へ思わずの苦笑を洩らした。今は虹雅渓で、知己である工部匠の正宗老の元に身を置き、弘安医師の手によって新しい機巧の躯を再生中のお侍。とはいえ、コマチの婿になるのなら、農作仕事もこなせねばならず。前の体では体格も手足も大きすぎての無理な相談だったそれが、新規の体となるにあたっては改良のしようもあるのではないかという話も出たとかで。田植えじゃ草引きじゃ稲刈りじゃ…がしやすい体格、手先がもっと器用に動くような作りにいっそ変えてしまうか?と、医師らが訊いたところが。

 『俺様はそっちが良いんじゃねぇかと、納得もいったし覚悟もあったんだがよ。』

 ところが、コマチ坊が“オラが好きになったおっちゃまと寸分違わぬ姿がいい”と言って聞かなかったらしく。
『それじゃあ何か? コマチ坊は俺の見目へ惚れたんかって。今後のことも考えて、何とか言い聞かせようとしてそんな言いようをしたところが。あいつめ、何て言ったと思うよ。鎧のお化けみたいな姿にクラクラしたほど、オラ落ちぶれちゃあいねぇと来たもんでな。何だその言い草はって怒鳴りゃあ、そっちが先に言い出したんだろって言い返して来て、第一、オラはおっちゃまがおっちゃまだから惚れたんだ、見た目なんかどうでも知らねぇっなんて言いやがってよ。なのに元のまんまじゃあないとイヤだなんて、それって言ってることがおかしいとは思わねぇか? まぁったく可愛くねぇったら…。』
 まだまだ続きそうだった、惚気以外の何物でもないぼやきを聞かされ、
『はいはい、判った判った。』
 閉口気味な口調になって七郎次が窘めた相手は、仮の体だという機巧躯に収まっており。あくまでも器だけなので、さして機能があるでなし、動き回ることさえ出来ない段階。そんな無聊に腐っていた最中だったせいもあり、話相手が来てくれたと、随分と多弁になってもいたらしい。仮のものにしては、だが、その外観が生前の…いや死んではないか、彼らが知るところの菊千代の姿とほとんど同じだったので。どうやら未来の新妻の意向の方が通ったらしいと、そんな話まで虹雅渓から運んで来た彼が、今の今 見守っているのもまた、大切なお仲間二人のお姿で。

 「…。」

 片やは、白い砂防服の肩口を濃色の蓬髪が覆う、屈強長身な白い手套の壮年殿で。葉をすっかりと落とした木々の梢が織り成す、目の粗いザルのような天蓋からの木洩れ陽に。まだらに塗り潰されての、照らし出されたその手には。愛用の太刀…ならぬ、農具の柄だろう長いめの棒っきれが握られていて。そんな彼と向かい合うのが、

 「…。」

 こちらさんは…まだまだ元のあの戦闘用の衣裳ではなく、村人たちが揃いで着ている、青が基調の羽織を着た装束の、下だけ別仕様の青いいで立ちの双刀使い殿。上背もあって風貌も玲瓏に冴え、存在感も違うので、村人側からも見分けがつかぬということ、まずはなく。まだ完治に至らぬ右の手首に、用心のためというギプスを嵌めたままでいるがため、その手へは得物を持たずの、こちらも木刀代わりの棒は一本。そもそもからして刀を両手で握って操っていた訳ではないから、太刀さばき自体に不自由はなかろうが。間合いを詰め合い、刃を噛み合わせての力圧し。そんな恰好での鍔ぜり合いになったなら、そこは久蔵の方が不利でもあろうに…との予測を立てていた七郎次だったところが。

 「…っ!」

 前後に開いて構えていたその前の足を、じりと進めたと見せかけて、その痩躯が羽ばたくように宙へと舞った。尋常ではない身軽さは、すっかり元通りのそれへまで回復しておいでなようだから、勘兵衛ばかりが有利とも言えない立ち合いではあり。

 「…っ。」

 そんな相手の鮮やかな先手へ引き摺られぬは、こちらもまた練達ならではの場慣れから来る、余裕という名の鷹揚さ。視線だけが鋭く走って、宙へと跳んだ相手を見据え、正眼に構えていた木刀の切っ先を僅かほど…そのものは動かさぬままながらも、込めた気勢の方向は微妙に上へと変えての待ち構え、

 「哈っ!」

 本来の若き剣豪殿の手際であったなら。彼から突っ込んでゆくというこの場合、相手の太刀を片やの刀にて、薙いでか叩きてか弾いての退けさせて。究極の間合い、懐ろへと飛び込みがてら、残る刀にて止めをさして…と。瞬く間にそれらをやってのけてしまう、そりゃあ鮮やかな瞬殺で決着がつくところ。双刀を操れぬ身の今の久蔵なら、さて どう来るものかと。標的であるご本人であるにも関わらず、傍観者の七郎次とさして変わらぬ観察者の眸となって、見届けてやろうかいと構えていたらしき勘兵衛へ。若き侍の掲げた木刀は、高々と振り上げられたそのまま、真っ向からの垂直落下。飛び上がった高さからの加速も加味されて、結構な威力にて振り落とされて来たのだけれど、

 ―― お?

 体重までかけての、重い一撃。だがそれは、一撃必殺の剣という攻勢ではなかったらしく。
「ぬう。」
 両手持ちの勘兵衛が、受けてたったそのまま、持ちこたえて揺るがぬことも織り込み済み。むしろその“動じなさ”を当てにしていた彼だったようで。太刀と太刀とががっきとぶつかり、どちらへも押され負けせず、反発が等しかったそのまま相殺し合って停止したことをバネとして。木刀を握っていた腕だけで、全身支えてのトンボを切ると、勘兵衛の頭上を軽々飛び越えてしまった久蔵であり。ほんの一瞬の叩きつけののち、そのまま手元で木刀を…ご丁寧にも“逆手”に持ち替えると。自分はまだ後ろ向きなままながら、背後となった標的殿の、やっぱり背中へ。後ろ手という格好にて、その切っ先を突き立てんとした、一連の流れるようなお手並みは。あまりになめらかで、且つ、素早き仕儀であったため。対象が、若しくは見ていた者が素人では、一体何が起きたかも判らぬうちの決着となっていたに違いなく。だが、

 「…っ?!」

 撹乱した上での背後から、あらためて斬りつけて来るとしたならば。左腕しか使えぬ久蔵、振り返りながらの右から左へ撫で斬ると読んで…いると思っての、逆手で真っ直ぐ突いたのに。勘兵衛の刀は…振り返っての彼の右から左、防御も兼ねての ぶんと振られて叩きつけて来たそれではなくて。久蔵の背中一杯へとぶつかって来たのが、なんと勘兵衛自身の背中だったものだから。

 「な…んで。」

 意外や意外の捨て身な仕業。どのような展開になろうと、あまたある実績の引き出しから、いかようにも機転を利かせた対処をひり出す彼の筈。だってのにこれは…想定してはいなかったぞと。次の対処へと移るのも忘れ、そのまま立ち尽くすと…つい訊いてしまった久蔵へ、

 「なに。トンボを切りつつの下から上へ、
  逆手にした刀を脇から延べての斬り上げて来るにせよ。
  着地してから瞬髪入れずに振り返りざま斬って来るにせよ、
  間合いが近すぎては、その腕、ままには動かせまいと思うてな。」

 後ろ向きでの間髪入れない攻勢が最も厄介だからと、左腕が来る位置を見越しての少し横へと避けてから、そのまま後方へ寄り掛かって来た彼であったらしく。

 “…無茶をなさる。”

 立ち会い人の七郎次もまた、頭上を飛び越された勘兵衛が、ついのこととて よろめいたかと思ってしまい。あっと声を出しての踏み出しかけたほどに、それが意識しての対処とは到底思えなんだ顛末であり。
“だが。木刀だからと安んじての対処ではない。”
 当たっても本当に切られる訳でなしという、甘えた考えから取られた対処じゃあないということ。彼の木刀がいつの間にか…これも逆手に握っての後ろざま、久蔵の胸板へ下から上への長々と斜めに渡されていることからも察せられ。久蔵が止まることなくの動いておれば、そのままお互いを斬り合うこととなっていた運びをして、ここまでは見事な“引き分け”と呼べるそれであり。

 「…くっ。」

 喉元まで迫り上がっているその刃が、すんでで止まっているのが…いっそ小憎らしいと思えたか。右の手首、ギプスのところでぐいと木刀を押しやった久蔵。ちょいと反則、でもまあ、こういう状態ならば、それを盾にするもまた兵法には違いなく。そうやって勘兵衛の刀の“切っ先”から逃れての、一足飛びに飛びのいて離れる彼の動きに呼応して。勘兵衛もまた、突き放された木刀の、その反動という流れに身を任せ。刃を引きつつ、くるりと反転して見せる。双方ともに、いかにもというほどの険のある表情でないものの、それでもこんな場に村人が来合わせたなら、一体何事かと驚くには違いない。そんな場合への対処として、怖がらぬよう、にこりと微笑って差し上げる役とそれから、

 「…っ、待った。」

 こちらは紛うことなく彼の得物。赤鞘の槍の柄だけを延ばし、二人の狭間へ延ばして指し渡す七郎次であり。
「…っ。」
 何だ何で止めるのだと、一瞬険しい眼差しになった久蔵へ。恐れもないままわしわしと歩み寄り。槍は小脇に挟んでの、白い手を延べるとそのまま、久蔵の細い顎を捕まえてしまって曰く、
「ほれ、ここ。さっき無理から引っ張ったのでしょ?」
 あの戦闘服であったなら立った襟にてガードされてた首条に、装具のベルトが擦れてついた跡が、赤々とした帯になって引かれており。手首を吊っていた装具ゆえ、木刀を避けた所作に引かれて思い切り、ベルト部のその縁が肌を擦ってしまったらしい。
「…。」
「ええ、さほどは痛くないのでしょうけれど。こんなことへも気づけぬほどに、熱くなっておいでなら、アタシとしては止めるしかない。」
 この立ち会い、審判役の七郎次の指示には絶対に逆らわないことというのが条件にもなっており。万が一にも久蔵が押し切ったとて、勘兵衛が戦意を引っ込めてしまうことは目に見えていて。

 「〜〜〜。」

 まだ出来るのにと言わんばかりの仏頂面で、それでも ふしゅんと萎んだ次男坊へ。こんなして動かせない右手を庇ってのこと、体のあちこちにもかなりの無理を蓄積しているのは間違いありません。妙な癖がついてしまって、せっかく全快したその後々までも そのまま残ってしまったらどうしますか、と。筋道立てての説き伏せて、
「さ、今日のところは此処までですよ。」
 焦らない焦らないと、おまじないのように囁いてやり、目許を細めて微笑って差し上げれば。意向には逆らわないということか、手にしていた長柄を降ろした久蔵の、攻撃向けの尖った意識が、ようやくのこと仕舞われる。だが、
「〜〜〜。」
 依然としてむうとむくれたそのまんま、熱に潤んだその眼差しは、対手の勘兵衛へと向けられていて。そこには刺すような敵意こそないけれど、敢えて言うなら一途な執着とでもいうのだろうか。そんな気色が滲んで消えない。そして、それを重々判っていつつ、口許を仄かにほころばせる御主のお顔にも。不敵なまでの猛々しさが、野性味をまとっての見え隠れしてなさり。
“ああ、このお人たちは”
 刀に惹かれ、刀に生きるしか知らない人たちなのだなと、こんなところでも思い知らされる。世界から隔離されてた夢から覚めての、根無し草のまま、遊里にいたのはほんの五年ほど。なのに、自分からは随分と、侍の匂いは薄まったような気がしてならず。同じように強く撓って折れないそれでも、竹のような剛の気概ではなく、柳のような強かさのほうが馴染みよくも染みついてしまったような気がして。

 「シチ?」
 「ああ、いえ。何でもありませんよ。」

 目許を細めて口許をほころばせ。案じないでと微笑った七郎次の青い双眸に、淡色の睫毛が陰を落として。


  ―― 春を待つための冬が、神無でも始まろうとしていた。





  ◇  ◇  ◇



 重々静養した上でと言い置かれたことを守っての、きっちりと体を休めて来たらしい七郎次が神無村へと戻って来たのが。あの慌ただしい出立からちょうど二十日ほど経った頃合いの、昼間日中のことであり。虹雅渓からの道中、途中までは勝四郎も別の運搬船で曳航しつつ同行してくれたそうだが、運転は途中途中で交替し合っていたという。
『そのくらいピンシャンしてからでないと、戻って来てはならぬと言われましたからねぇ。』
 彼を残して先に戻ると言い出すなんて。何だか様子が訝
(おか)しい久蔵だったことが、さすがに気になってはいたが。他人を案じるのは自分が復調してから。それこそ堅く意識してのこと、治療にも快癒への静養にも専念したお陰様、もしかして元より元気になったのではないかというほど回復しましたと報告した彼を前にして、
『…。』
 久々に逢うおっ母様に人見知りでもしているものか、どこか心許ない様子であったのも束の間のこと。忘れかかってた温みや匂いを取り戻そうと言わんばかりに、ひしと抱きしめの しがみつき。やっぱり大好きな人だとの再確認も済ませてしみじみと、お帰りなさいとその身で示した次男坊だったりしたそうで。




 そうして再び始まった、神無村にての彼らの暮らしようは。変わらないと言や変わらない、至って穏やかな農村での日々で。だが、変わったと言や少しほど、以前にはなかったものも増えた。まずは冒頭に繰り広げられていた、久蔵と勘兵衛による立ち合いで。本格的な冬に入って、寒さがつのってしまってからでは、不自由にしている体がますますのこと固まっての動かせなくなる恐れだって出るかもしれない。そうなることを避けるためにもという勘兵衛からの言葉添えと、久蔵自身がむずがり半分のおねだりにて口説き落として、おっ母様からの許可を取りつけて叶った代物であり。

  そして、こちらは…それが原因で生じたことではないけれど、

 降り積む雪にてその往来が完全に封鎖されてしまう前に。虹雅渓でしか手に入らぬ物資を早めに整えておきましょうとの配慮から、七郎次が再び…検診も兼ねていたのだが、半月経たずに街へと発った。これには久蔵が少々…七郎次にしか拾えないような度合いでの、不服そうな顔をしたものの、

 『今度は行って戻って来るだけですよ、すぐですって。』

 何せ、今では平八謹製の電信機がある。先に用件を伝えておいての準備をしておいてもらって…と、段取りよく運べるようになった。よって、着いたそのままという最短記録にてのとんぼ返りも可能となったので。四、五日はかかっていた一仕事が、その日程のやや半分で片付けられるようにもなっており。
『だから。そんなお顔、しないで下さいな。』
 置き去りにされる子供のような、そんな顔をした久蔵だったのへ。それだけ慕われているのだと ちょっぴりだけホッとしたことと、そんなことを喜んでしまった自分を浅ましいと思った羞恥とを、人知れず胸の奥底で噛みしめて。相変わらずに細い肩を抱いてやり、すぐに戻りますとの念を押し、

 “………。”

 七郎次が虹雅渓へと発ってしまうと、自然なこととして勘兵衛との立ち会いもお預けになる。別に誰が告げ口をするでなし、構うこたないと開き直ってもいいのだが。恐らくは勘兵衛が、日頃以上に本気を出さない構い方しかしてくれやしなかろう。ちゃんと七郎次が見守っていての立ち合いにしてみても、ずんと覇気を沈めたそれであり。それでも…ついついこちらが熱くなってしまうほど、巧みな機転や太刀筋を繰り出して来る彼なので。ああやはりこやつの剣技には惹き込まれると、ムキになる自身の高ぶりようでも、それと実感させられており。

 “……。”

 その勘兵衛も今は長老のところへと出掛けており、だだっ広い住まいに今は久蔵しかいない。囲炉裏には鉄瓶が下げられていて、じんわりとした炭火に炙られての、しゅんしゅんと蒸気の上がる音が立っているだけ。例によって、きっちりとお片付けをしてから発っていった七郎次なので。こちらの板の間も隣りの居室も、閑散として見えるほどすっきりしていて。しんとした静けさがいや増すばかり。

 “何も、ない、か…。”

 刀とそれから、それを振るうこと。それによって何物をも凌駕すること。それまではそれしか自分には持ち合わせるものがなかったと思う。矜持も生き甲斐も、意識するまでもなく刀の上にしかなかったし、刀しかなかったからこそ、生か死かという二者択一が当たり前で。失うものなぞ無かったからこそ、恐れる要因もなく、結果、どんな修羅場であろうと迷いなく駆け抜けて来られたのかも知れない。

 “…。”

 虹雅渓に居たころも、時折。居心地の悪さに心が揺らめくことがなくはなかったが。だが、それは此処があの“空”ではないからだと、諦めることで圧し伏せて来た。刀を振るうことを必要とされない、大戦後の地上。無理から封じられた訳ではなかったが、斬るに値しない者しかいないのでは封じられたも同んなじで。焦燥に喉の奥が灼けそうになったのも遠い過去となり。停滞の淀みの中、諦めばかりを詰め込んだ胸を抱え、このまま息の仕方さえ忘れて朽ち果てるのかと。


  ―― そうと見切りかけていたところへと、降って来たのが彼らだった。


 農民に請われて働くなぞ言語道断だったけれど、それを持ちかけた男こそが、久蔵を奮い立たせてしまった、今時稀なる“侍”で。

 “…。”

 自分がこの後、勘兵衛についてゆくのは譲れないこと。決着をつけるという約束もあるがそれだけじゃあない。あの男の行く末を見届けなくてどうするかと、それこそが始まりなのだ、こればかりは譲れない。その上で、この穏やかで居心地のいい日々が続くものだと、当たり前に思ってもいて。それを築いている重要な一角が、それと具体的に気づいていなかった内から、儚くも頽れた。

 『七郎次さんは、このまま此処に残って下さるのだろか。』

 久蔵にしてみれば、思いもよらなかった方向から現れた、それはそれは意外な先行きの青写真。

  ―― 春になったら、七郎次はそのまま、
      虹雅渓の『蛍屋』へ身を落ち着けるのかもしれない。

 先の大戦にて“北軍に白夜叉あり”と南軍の最前線で恐れられていた凄腕の斬艦刀乗り。その大将が勘兵衛であり、そんな彼を補佐し、斬艦刀を操っていたのが七郎次だったと聞いている。斬艦刀乗りと言えば、自分も南軍にて在籍していた、白兵戦主体の切り込み部隊の人間を差し。正にその身ひとつで、あの修羅場を…戦さ場を駆け抜けていた筈で。どんな連携だったかまでをつまびらかに語る彼らではなかったし、これみよがしなまでの親しさを匂わせるような振る舞いもなかった二人だったが。その言葉少なな呼吸こそが、どれほどの蓄積を持ち、しかもそれらを今だに生かせるだけの信頼と深い把握を、それぞれがお互いにどれほど抱いているのかという明白な証し。言われてみれば、七郎次が勘兵衛へ指示を仰ぐのは、いつも決定に関してだけ。どう処すのかだけを聞き、それへと至らせるための細かいところは、わざわざ聞くまでもなく大将の意に添うような運びを構築出来る七郎次は。大戦時はきっと…大将が切り込むその露払いを受け持ち、乱戦の中にあっては御主の背を任されて、鬼神のように頼もしき槍ばたらきをこなした副官殿だったに違いなく。生死を共にしていたからこそ培われた呼吸は、もはや我が身への理解に等しいそれであり。あの、誰とも縁
(よしみ)を結びたがらぬ勘兵衛が、自分の古女房だなどと呼ぶほどの把握は、家族や連れ合い以上の深き絆があってこそのそれではなかろうか。

  だっていうのに。

 彼らはその大戦の終焉で生き別れ、こたびの野伏せり相手の戦にあたり、大戦以降、初めての再会を成した格好だったそうで。

  そして。

 その空白の十年間。生命維持装置の中で5年を眠って過ごした七郎次には、半分のそれだとはいえ、それでも五年間という歳月を、虹雅渓の蛍屋で過ごした彼は。あんなにも店の者らから慕われており、

 『七郎次さんは、このまま此処に残って下さるのだろか。』
 『だって。聞いた話じゃ、もうお仕事とやらは済んだんだろ?』
 『だったらサ、また此処に戻って来てくれるんだよね?』

 彼にはそういう選択肢もあるのだと。ほんのこないだまでそうだったんだからと、彼とのこの5年のずっとを過ごして来た蛍屋のお仲間が口にしていたのを聞いて。その途端、久蔵の胸の裡へと沸き立ったのが、自分でもよく判らない“動揺”という代物で。

 “…シチが?”

 あまりに急なこと。いきなり目の前へと開けた、別な道。穹しか知らず、そこへ帰りたいとしか望まぬ自分へ。根気よくかかって、世界の温度を教えてくれた。それは優しい手の持ち主が、これから先の自分の傍からいなくなる?

 “…。”

 自覚とともに押し寄せた格好の欠落感だったせいもあり、不安に揺れた久蔵だったものの。落ち着きを取り戻すにつれ、自分が聞いて得ていたあれやこれやを思い出して。

  ―― もしかして。
      七郎次はそっちを…蛍屋に戻るという選択肢を選ばないかもしれない。

 あの大戦の終焉ともなった最後の決戦のどさくさに、仕えていたも同然の御主であった部隊長と生死も判らぬ別れ方をした七郎次。自分が生き残れたことよりも、時間と勘兵衛から置き去りにされたことへと悲観をしていたという話であり。追い腹切ろうかと思い詰めたほど逢いたかった、それほど慕っていた勘兵衛との再会が叶ったのだ。勝算の低すぎる野伏せりとの戦さへも、一も二もなく参戦してくれたという話だし。ということは、このまま勘兵衛について来る公算の方が高いのではなかろうか。だってあの時、先の騒動で昏倒した彼が目を覚ました時。自分が蛍屋にいると気がついて、真っ青になった七郎次ではなかったか。勘兵衛との再会が夢に過ぎなかったのかもと。だとしたら、そんな酷な夢はないと。日頃の落ち着きはどこへやら、一気に青ざめてしまった彼ではなかったかと。そんなこんなからもう一方の可能性の方を何とか構築し、やっと落ち着くことが出来て。

 「…。」

 誰かを想ってこんなに落ち着けなくなるなんて、思えば初めてのことじゃあなかろうか。気が逸っての落ち着けず、上官や朋輩の制止を振り切るほどの勇み足にて、敵陣へといの一番に斬り込んで、敵へと躍りかかってしまった覚えはたんとあったけれど。これはそれとは真逆の代物。形の無い心痛から胸まで痛くなるなんてこと、今までに一度だって味わったことはなかった。単なる動揺以上の、そう不安。この腕がいつまでも痛いままだった時期に感じた、あの煮えるような苛立ちともどこかで似ている焦燥ではあるが。今はどこも痛くはないのにと思えば、

 “…。”

 胸や腹をギュッと掴みしめて絞り上げるような、この息苦しい痛痒の不快さは。一体どこの何から来るものかとそれもまた不安でたまらず。これはきっと、彼の人から甘やかされたことで染みついた弊害なんだとも気づかぬまま。この人がいてくれないとという思慕を初めて感じた相手への、想いが深ければ深いほど、自分の意志ではどうにも出来ないことへのやるせなさもまた深くつのって。


  ―― 手の届かぬ月へと焦れる、童子みたいだ。


 それもまた、七郎次が村の子供らへと聞かせていた御伽話じゃあなかったか。薄日の差したことでその陰を、板の間に落とした連子窓からは、冬ざれた村の様子も見えなくて。ただただ風の音ばかりが、素っ気なくもゆきすぎる………。








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  *はっきり方をつけるのが、とっても面倒な下りにとうとう突入でございます。
   おっ母様好き好きな久蔵さんが、どうやって親離れするものか。
   ついでだから、
   勘兵衛様を見送ることとなるシチさんの心積もりも書かなきゃねぇと、
   自分でハードル上げてたり。
   きっと難産になるんだろうな…。くっすん。

めーるふぉーむvv めるふぉ 置きましたvv

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